国際保健用語集

用語 ハーム・リダクション
概要

(英語訳:Harm Reduction)

ある行動が原因となっている健康被害を行動変容などにより予防または軽減させることをハーム・リダクションと呼ぶ。特にHIV対策では、注射薬物使用者(IDU: Injecting Drug User)が注射器や針を共有することによるHIV感染を、注射器交換や経口薬物への薬物代替によって予防する対策として取り上げられることが多い。これに相当する日本語は見当たらず、通常「ハーム・リダクション」とそのままカタカナで使用している。

ハーム・リダクションは、この対策自体が薬物使用を抑制するのでも逆に奨励するものでもない。注射器や針の共有によるHIV感染を予防するための現実的な対策であり、法規制と相反するものでもない。むしろ、違法性を強調してIDUへの取り締まりを強化するのみでは、IDUは地下組織にますます入り込み、対策が難しくなるとも言われている。また最近ではハーム・リダクションを通じて薬剤依存症の治療へのアクセスも期待されている。

同様に、セックス・ワーカーに対してもセックス・ワーカーを取り締まるなどの対策でなく、セックス・ワーカーへのコンドーム配布などより安全な性行為へと行動様式を変えることが、結果的にセックス・ワーカーの健康を守ることにつながると考えられる。

これらを実施するためには、社会の理解や法的な整備が必要であり、ヨーロッパ、カナダ、オセアニア、中国、タイ、インドなどは国家政策として積極的に推進している一方で、米国、ロシア、日本などにおいては、その取組みは限定的である。(垣本和宏) 

用語 中東呼吸器症候群
概要

(英語訳:MERS, Middle east respiratory syndrome)

MERSコロナウイルスの感染により重篤な呼吸器症状と発熱、咳などを引き起こし、重症化により死亡する感染症で、2012年にサウジアラビアで初めての患者が報告された。予防のためのワクチンや治療薬はない。2012年9月から2017年6月6日までにWHOにはMERSの確定患者が1980例報告されており、そのうち死亡例は少なくとも699例であった。ヒトコブラクダが感染源と言われており、多くのヒトコブラクダからMERSコロナウイルスが検出されている。MERS患者の多くにヒトコブラクダとの接触歴があり、持続的なヒト-ヒト感染は否定的であるが、医療機関においては医療従事者が感染するなどヒト‐ヒト感染も多く報告されている。中東以外の国で報告されている患者のすべては中東からの輸入例で、2015年にはバーレーン、アラブ首長国連邦(UAE)、サウジアラビア、カタールに滞在した一人の患者が韓国で発病し、院内感染等により韓国国内で186人が感染し(うち、1人は中国で発病)、36人が死亡した。

日本では、MERSは2015年1月に感染症法上の二類感染症に分類され、検疫法上の検疫感染症にも指定された。(垣本和宏) 

用語 オタワ憲章
概要

(英語訳:Ottawa Charter)

1986年、カナダのオタワにおいて第1回ヘルスプロモーション世界会議が開催され、その成果がオタワ憲章としてまとめられた。憲章のなかで、ヘルスプロモーションは、「自らの健康を決定づける要因を、自らよりよくコントロールできるようにしていくこと」と定義し、健康とは「・・・日々の暮らしの資源の一つであり、生きるための目的ではない」としている。このようにオタワ憲章では、健康を目的としてではなく手段ととらえている。健康の改善には必要な条件があることも示している。平和、シェルター(住居)、教育、食料、収入、安定した生態系、持続可能な資源、社会正義、公平である。

オタワ憲章は健康改善のための以下の5つのヘルスプロモーション戦略を示している。1) 健康的な政策づくり、2) 健康を支援する環境づくり、3) 地域活動の強化、4)個人の技術の開発、5)ヘルス・サービスの方向転換。この5戦略はその後のWHOによる、健康都市や包括的学校保健活動など、世界規模のヘルスプロモーション活動の基盤をなしている。

さらに、ヘルスプロモーターの新たな役割として、以下の3点をあげている。1) advocating(政策提言を行う):健康は社会的、経済的、個人的発展のための資源であり、目的ではないという立場をとる、2) enabling(能力をひきだす):すべての人が、健康になるために自らの潜在能力を発揮できるような支援を行う、3) mediating(調停を行う):他分野間との協調をはかる。(渡部明人)

用語 ハンセン病
概要

(英語訳:Hansen’s disease 、Leprosy)

ハンセン病は、Mycobacterium lepraeという抗酸菌により起こる慢性感染症である。感染したヒトからの咳やくしゃみによる飛沫感染やアルマジロ等との接触により、皮膚、末梢神経、気道粘膜、眼に感染する。非常にゆっくりと成長する菌であるため、平均潜伏期間は5年で症状出現に20年かかることもある。特徴的な皮膚病変、しびれや感覚障害といった末梢神経障害、失明が出現し不可逆的に進行する。かつて日本では治療不可能な疾患と考えられ、患者への過剰な差別、隔離が行なわれていた。しかし現在では早期診断できれば、抗菌薬で治療可能である。標準治療薬はダプソンとリファンピシン、multibacillary多菌型の場合にはクロファジミンを追加する多剤併用療法である。治療薬は、半年から2年間内服を続けなければならない。WHOは1990年台から排除に向けた取り組みを開始した。1995年からは日本財団等のドナーの協力のもと、治療薬が無料で提供されている。人口1万人あたりの患者数は1983年に21.1人であったが、2016年末には0.23人と99%減少している。しかし、インド、ブラジル、インドネシア、コンゴ民主共和国、バングラデシュ等では年間3000件以上の新規患者報告がある。WHOはハンセン病の無い世界を目指し、特に流行地での対策を強化する新たな世界戦略を2016年発表し、ハンセン病の無い世界を目指すべく、流行地域にターゲットを絞った保健人材育成や薬物供給といった取り組みが行なわれている。(法月正太郎)

用語 母乳栄養
概要

(英語訳:Breast Feeding)

新生児・乳児の栄養方法の1つであり、母乳で子どもを育てること。以前は人工乳で子どもを育てる「人工栄養」との対比でこの語が用いられた。しかし本邦において、1990年ごろから母乳栄養に代わり「母乳育児」の用語が用いられている。これは、母乳で子どもを育てることが単に子供に必要な「栄養」を与えるだけではなく、母子相互作用を含めた「育児」の側面を重視する必要性が認識された点が大きい。歴史的には、第二次世界大戦後、世界的に人工乳が普及し、途上国においては「哺乳びん病(bottle disease)の悲劇」と呼ばれる、不適切な人工栄養による乳幼児死亡の被害が激増した。その結果、人工乳メーカーへの批判が高まり、1981年には世界保健総会において人工乳メーカーの販売活動を規制する「母乳代用品のマーケティングに関する国際基準」が採択された。さらにWHO(世界保健機関)とUNICEF(国連児童基金)は、1989年には「母乳育児成功のための10か条」を提唱、1991年には母乳育児推進を先進的に取り組む産科施設を認定する「赤ちゃんにやさしい病院運動(Baby Friendly Hospital Initiative: BFHI)の活動を開始し、世界で発展を続けている。一方でHIV感染症の産婦による母乳育児についてもガイドラインを作成し、安易に人工乳を使用せず、状況に応じたカウンセリングを行う方針が示されている。 (小黒道子) 

用語 ワンヘルス(ひとつの健康)
概要

(英語訳:One Health)

ワンヘルス(ひとつの健康)は、地球上に暮らす人間、動物、環境の3者が協調して、3者全ての健康を維持、増進させる取り組みのことを言う。近年、急速な経済発展と人口増加により新興・再興感染症が世界的な脅威となっている。新興・再興感染症のほとんどが人獣共通感染症であり、人間、動物(野生動物、家畜、ペット)、環境という3者それぞれの対策と改善が求められている。西アフリカでの大規模なエボラ出血熱の流行もその一つであり、これらの対策には人間、動物、環境の要素が複雑に絡み合うため、協調して問題解決にあたる必要がある。一方、これまでの対策は、人間の健康に関する問題はWHO、動物に関する問題は国際獣疫事務局(OIE)、環境や農業に関する問題は国際連合食糧農業機関(FAO)というように、国際機関が縦割りで対応するなど、協調性に欠けていた。このため近年ではワンヘルスの概念に基づき、地球規模の健康維持増進のため3者が協調して問題解決すべきであると考えられるようになってきた。例えば、抗菌薬耐性菌の問題は、ヒトに対する対策だけでなく、家畜に対する抗菌薬を適正に使用することが非常に重要である。地球上の生態系の保全は、ヒトおよび動物の健康の両者が相まって初めて達成できる。その実現と維持のためには、3者が協調して人と動物の健康維持にむけた取り組みが重要である。(法月正太郎)

用語 世界保健機関
概要

(英語訳:WHO, World Health Organization)

世界保健機関は、人間の健康を基本的人権の一つと捉え、その達成を目的として設立された国際連合の専門機関(国際連合機関)である。1948年、55カ国のメンバーにより、国際連合の専門機関として設立され、本部はスイス・ジュネーヴ。設立日である4月7日は、世界保健デーになっている。当時の課題としては、マラリア、女性と子どもの健康、結核、性病、栄養、環境衛生であったが、現在は緊急公衆衛生危機対応、非感染性疾患、保健システム、気候変動と健康など、非常に広範囲な課題を抱えている。2018年4月現在、194の国と地域が加盟し、年一度、世界保健会議(WHA, World Health Assembly)が開催され、グローバルヘルスの課題および解決策を協議する。ジュネーブに本部を持ち、6つの地域事務局(ヨーロッパ、アフリカ、東地中海、南東アジア、西太平洋、アメリカ)を有し、世界のすべての人々の身体的、精神的及び社会的な健康(WHO憲章前文)を目指している。

具体的な活動としては、保健医療情報の収集および公開や国際基準の設定、多国間協力の推進、災害時緊急対策、感染症対策(緊急公衆衛生危機対応含む)、健康都市問題の取り組み推進があげられる。これまでの活動の一番大きな成果としては、1979年に天然痘を撲滅した事例があげられる。現在は、1)ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)、2)国際保健規則(2015)、3)医薬品へのアクセス向上、健康に関する社会・経済・環境要因への対策、非感染性疾患、4)保健関連ミレニアム開発目標分野への対策の継続、をWHOの重点活動として掲げている。また、西アフリカにおけるエボラ対応への反省から、緊急公衆衛生危機予防・対応を中心としたWHO緊急改革が2015年より行われている。(渡部明人)

用語 オペレーショナルリサーチ
概要

(英語訳 : operational research [英], operations research [米])

オペレーショナルリサーチは、国際保健分野においては、アクションリサーチやインプリメンテーションリサーチと同じ意味で使われることが多いが、数学的・統計的モデル、アルゴリズムの利用によって、複雑なシステムにおける意思決定を支援し、また意思決定の根拠を他人に説明するためのツールとして用いられるなど、複数の用法が混在するため、注意が必要である。そのため、定義も標準化に至っていないが、提案されている定義の多くに共通するのは、その研究の目的を、研究対象のプログラムの質、有効性、または適用範囲を高めることができる介入、戦略、またはツールに関する知識の検索をするため、あるいはより具体的に保健プログラム実施上の課題に対して対応策を検討するため、と定めている。つまり、オペレーショナルリサーチの重要な要素は、保健プログラムの活動(予防、ケア、または治療)の実施中に遭遇する制約と課題を特定することによってリサーチクエスチョンを同定し、これらの質問に対する回答が直接的・間接的に問題を解決し、ヘルスケア提供の改善に寄与することである。もちろん、これは一度に起こるわけではなく、しばしば連続的かつ反復的なプロセスとなる。

その方法論としては、記述研究 (もし強力な分析要素が存在する場合、横断研究)、症例対照研究、後ろ向きまたは前向きコホート研究の3つが主に用いられ、基礎科学研究やランダム化比較研究は通常含まれない。また、データ収集方法に着目し、既存のデータ収集メカニズムを通じて収集されたデータを用いる調査・研究をオペレーショナルリサーチとして、インプリメンテーションリサーチと区別する定義を提案するものもある。いづれにしても、伝統的な科学研究が、全ての状況にあてはまる「一般化」される成果をめざすのに対し、特定のプログラムの実施上の課題に対する対応策を検討するため、特殊な状況や地域特性などに焦点をあてることを目指すことに特徴付けられると言える。

一方、数学的・統計的モデルを用いて意思決定を支援する、古典的な意味でのオペレーショナルリサーチの保健への適用も、保健システム管理や病院管理などの分野で試行されているが、先進国での実施が多いようである。(野崎威功真)

用語 ジェネリック医薬品
概要

(英語訳 : Generic Medicine)

医師の診断によって処方される医薬品は、開発の経緯によって「新薬(先発医薬品)」と「ジェネリック医薬品(後発医薬品)」とに分類されまる。

医薬品を人に使用するのに先立ち、期待する効能・効果を有するか(有効性)、効能効果に比して著しく有害な作用を有しないか(安全性)などを証明する必要がある。そのため主成分である「有効成分に関する試験」と投与用に加工された「製剤化された医薬品に関する試験」が必要である。毒性試験、薬理試験及び治験と呼ばれる人による臨床試験など、新薬開発に要する期間は約9~17年、費用は約300億円以上かかる。国はデータに基づいて審査し、厚生労働大臣が承認したものだけが医薬品として流通が許される。

一方、ジェネリック医薬品は先発医薬品の長年の臨床使用経験を踏まえて開発、製造され、先発医薬品と同一の有効成分を同一量含有しており、対象とする疾病や発揮する効能・効果や使用方法・使用量(用法・用量)も基本的には変わらない。添加剤の成分や配合量が先発医薬品と異なるが有効性や安全性に違いが出ることがないように、ジェネリック医薬品の承認審査においては、生物学的同等性試験のテータの提出を求め、主成分の血中濃度の挙動が先発医薬品と同等であることが求められる。 有効性・安全性の評価が先発医薬品により既にある程度確立しているため、ジェネリック医薬品の開発期間は、約3-5年、費用も約1億円ですみ、情報収集・提供等に関する販売管理費も少額のため、低価格での提供が可能である。政府の政策的後押しにより、2005年から2015年の10年間にジェネリック医薬品の販売数量は1.7倍に増加している。(木村和子)  

用語 外傷後ストレス障害
概要

(英語訳 PTSD, Post Traumatic Stress Disorder)

心的外傷(トラウマ)となる犯罪や災害などの生死にかかわる経験、死傷の現場を目撃するなどの恐怖体験が契機となり、1か月以上持続して症状を呈し、強い苦痛や生活上の機能障害をきたす精神障害。世界的にはベトナム戦争など紛争体験者、その兵士、日本では阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件後に注目されるようになったが、交通事故、虐待、レイプなどでも生じる。

おもな症状は、侵入(フラッシュバック、悪夢、想起刺激による心理的苦痛や生理学的反応)、回避(トラウマ体験に関連する状況や感情を避ける)、認知と気分の陰性変化(自身や他者の過剰な否定、大事な活動への関心や参加の著しい減退、愛情を感じなくなるなどの感情領域の狭小化)、覚醒度と反応性の著しい変化(睡眠障害、過度の警戒心、過剰な驚愕反応、集中困難)の4種類に分類される。

心理療法や薬物療法が主たる治療法となる。なお、PTSDを発症した人の半数以上がうつ病、不安障害、アルコール依存などを合併することが知られている。(井上信明)